パレスチナ・ファレスティーン

笑って泣いて食べて暮らしたパレスチナ。 時々の思いを綴ります。

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パレスチナ国連加盟申請から思う2000年

パレスチナの国連加盟申請から、一夜明けて、
パレスチナの町は通常の静けさを取り戻しているようです。
26日の安全保障理事会までは、静かな攻防となるのでしょうか。

今回の国連加盟申請とアッバス大統領の演説では、
米国の説得にも応じず、自らの主張を通したことについて、
パレスチナ内では評価が高いように感じます。

思い出したのが、2000年7月のキャンプデービッド会議のことでした。
オスロ合意の最終段階ともいえるこの会議で、
米国クリントン大統領の仲介のもと、
イスラエルのバラク首相は最大限の妥協案を提出したのに、
パレスチナのアラファト議長はそれを受け入れず、決裂した、
というように、多くの場所では伝わってきました。

この密室での会議は、後年様々な回顧録で明らかになってきていますが、
公式記録の発表などというものはないようで、
アラファト議長亡き後、闇に葬られた部分もあるのではないかと思います。

当時、パレスチナにいた私は、政治交渉の概要もよくわからぬままでしたが、
ただ、その時のパレスチナ人の反応は、
アラファトはよく踏みとどまった、
というようなことが強かったと記憶しています。
あそこで、アラファトが妥協していたら、
アラファトは裏切り者とされただろうとの声も聞きました。
もし、合意すれば、難民の帰還権、エルサレム問題、入植地など、
パレスチナにとってどうしても譲れない部分において、
パレスチナ人の権利が奪われる結果になりかねないものだったことが
危惧されていたのは、確かでしょう。

当時、国際社会では、アラファトによる和平の失敗としての声が聞かれましたが、
パレスチナ内の反応は、ずいぶん違いました。

アラファト議長は、その後の第2次インティファーダにおいて、
イスラエルからは攻撃の標的とされ、米国をはじめとする国際社会からも
交渉の場から引き下ろされましたが、
パレスチナでは最後まで解放の闘士だとといえるでしょう。
(汚職などパレスチナ内でも多くの批判を抱えていたにも関わらず・・・)

今回のアッバス大統領の取った行動は、
必ずしもキャンプデービッドでのアラファト議長の決断と
同列に比較できるものではありませんが、
(パレスチナ内ではイスラエル寄りといわれるあのアッバス大統領が)
パレスチナの民意に従ったものであったものであること、
米国やイスラエルに迎合することなかったことは共通し、
例え、政治的な困難が予想されたとしても
パレスチナでの人々からの支持となったのでしょう。
大国の介入によるイスラエルとパレスチナの和平交渉の行き詰まりの中、
国連という公の場でのアピールにおいて、
一定の国際社会からの理解も得られたのではないかと思われます。
この10年で、パレスチナはあまりにも多くのものを失いましたが、
国際社会からの理解や少しは増したのかな、という気もしました。


そういえば、2000年のキャンプデービッド会議のときは、
日本で沖縄サミットと重なり、
クリントン大統領は来日の日程を遅らせたり中座したりと
結構は影響が出ていたと記憶しています。
今回は日本の首相の演説が、
パレスチナとイスラエルの間に入っているし、
妙なところで日本はつながっているのでしょうか・・・。

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