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パレスチナ・ファレスティーン

笑って泣いて食べて暮らしたパレスチナ。 時々の思いを綴ります。

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バレンボイムの思いは?

オペラとイスラエルボイコットの続きです。

問題にされたバレンボイムのメッセージは、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートでのもので、
全文が、ガーディアンに掲載されました。
バレンボイムの記事「勝利の幻想」のURL
 http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2009/jan/01/israel-gaza-bombings-hamas

題名は「勝利の幻想」、続く見出しは、
”もしハマスが壊滅されると、より急進的なグループが置き換えられるでしょう。
 イスラエルの安全保障は、賢明な行動によるべきです。”
となっていました。

メッセージのなかに書かれた、彼の、新年にあたっての3つの希望は、
イスラエル政府は中東の紛争は軍事的手段によって解決できないと認識すること、
ハマスは暴力によって目的は達成されないことと、イスラエルの存在を認めること
世界は複雑で敏感な二つの民族(people)にとってのこの問題を理解すること、でした。

イスラエルに自衛権があることを肯定した上で、
まさに12月末に始まり激化の一途をたどっていた、イスラエル軍のガザ攻撃に対して、
人口密集地であるガザ地区への攻撃は、市民全体に向けられた攻撃と非難し、
攻撃は絶え間ない残忍なものと批判しました。

そして、
”ユダヤ人は、他の誰よりも、
罪のない民間人の殺害は、非人道的で受け入れられないものと感じてるはず”、
と述べています。

イスラエル軍が軍事作戦でハマスを壊滅しても、より過激なグループが台頭するだけで、
軍事攻撃はイスラエルへの憎悪を助長するだけ、とも主張しています。

最後は、
”パレスチナの暴力はイスラエル人に苦痛を与え、パレスチナの大義を実現しません。
 イスラエルの報復は、不道徳、非人間的な非道徳的で、安全保障を保証しません。
 二つの民族(people)の運命は表裏一体につながっていて、
 隣同士に住むことを余儀なくされています。
 彼らは、これを祝福とするのか呪いとするのかするのを決定しなければなりません。”
と共存へのメッセージでした。

メッセージ全体としては、イスラエル軍事攻撃への批判と共存の訴えと、読み取れます。

文章の中に、あった下記の2ヶ所が、問題にされたのではないかと思われます。
”イスラエルに自衛権があることは自明のことであり、イスラエル市民へのミサイル攻撃は容認できるものでもすべきものでもないこと、と同時に・・・”
”私は、イスラエル政府の日々の意志決定の難しさを過小評価しません。また、イスラエルの安全保障の重要性を過小評価しません。にもかかわらず、・・・”
両方とも、イスラエル政府への批判的な意見に続くのですが、
これらの表現が、イスラエルの自衛権を認めていると、批判されたのかもしれません。

そのときの、イスラエルへの文化的なボイコットする側の主張を聞いたわけではないので、
何とも言えないのですが、
ウィーンフィルのニューイヤーコンサートという場で、
ユダヤ人系イスラエル人である著名な音楽家が、このような政治的な発言を恐れずに、
ガザ攻撃への批判やこの困難な時期にこそ共存を訴えた意味のほうが大きいと
私には思えるメッセージでした。

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オペラとイスラエルボイコット

パレスチナで初のオペラ1234の続きです。

オペラの最終日にお忍びでやってきた、ユダヤ系イスラエル人の音楽家バレンボイム
今回のいきさつが、イスラエルの新聞ハーレツの英語版に掲載されていました。
http://www.haaretz.com/hasen/spages/1100976.html
書いた記者は、パレスチナの問題を中からずっと追っている、アミラ・ハスです。
ざっと訳してみました。この記事では、キャンセルとありますが、
実際には、7月17日にバレンボイムはラマッラーにやってきました。
しかし観客には彼の参加は知らされず、彼自身がタクトを振ることはありませんでした。

ハーレツ 2009年7月17日
バレンボイムへのパレスチナ人の怒りは彼のラマラ訪問キャンセルを引き起こした
アミラ・ハス

ヨルダン川西岸地区の都市ラマッラーでのレオナード・コーエンのコンサートのキャンセルはマスコミの注目を浴びたが、それとは異なり、指揮者でありピアニストのダニエル・バレンボイムのラマッラー訪問キャンセルは、ほとんど秘密だった。

両方のキャンセルは、イスラエルや占領の“正常化”への反対を警告しているパレスチナの異なるグループによって、拍車をかけられた。

バレンボイムは、これまでにイスラエル軍法に違反してラマッラーに入り数回コンサートを行ってきた。彼は、今回はコンサートを行わない予定でいる。彼は、1826年に20歳で亡くなったバスクの作曲家J.Cアッリアガの作品に合わせて書かれた、アラビア語のオペラのラマッラーでの開催に参加する予定だった。

出演者のほとんどの子どもたちで、バレンボイム・サイード財団子どもと青少年合唱団、ラマッラーのエヴァンゲリカン・スクール合唱団、バレンボイム・サイード財団青少年オーケストラとアル・カマンジャティのメンバーだった。

バレンボイムは、友人のパレスチナ人知識人エドワード・サイードと共に、2003年、サイードが亡くなる直前に、バレンボイム・サイード財団を始めた。財団は、ラマッラーとナザレに音楽学校を創立し様々なプロジェクトを行っている。財団のその主な目的は、"専門分野の一般的傾向として、20世紀を通して専門と社会は距離を置いたが、音楽の「イオン」が社会の構成するものとして入ること"としている。

3月、学校はラマラ文化センターでオペラを上演しようと呼びかけたが、ラマッラー市役所に対してセンターの貸出を拒否するように求める反対の声が広まった。バレンボイム・サイード財団は、5-6日の投票の結果、市議会がホールの貸出に反対という決定を下したことを知った。

しかし、時と共に、市議会関連に影響を及ぼす様々な政治勢力は見解が一致しているわけではないことが明らかになった。何ヶ月も練習してきた子どもたちの親もまた、市の決定に反対した。

パレスチナ大統領アッバスの執務室からも圧力がかけられ、市の決定を覆す要求が出された。 7月4日、予定された初演10日前、市役所はオペラをそのホールで開催することに合意した。

ラマッラー市は、バレンボイムの出席を歓迎することを明らかにしたが、彼は最終的には来ないことを決め、彼自身のキャンセルの理由として多忙なスケジュールを挙げていた。ラマラの彼の同僚は、オペラ会場の中あるいは外で抗議があれば、子どもたちの幸せなイベントに水を差してしまうことを配慮していた。

ラマッラーの中での意見の相違の大半は、オペラ上演だけではなく、バレンボイム・サイード財団の存在そのものにも及んだ。

イスラエルに対する文化的なボイコットを進めるパレスチナの運動の有力な活動家は、ハーレツに対して、財団が出版物で公表していることにおいて”イスラエルの占領やアパルトヘイト政策に反対の立場にはない”ことは明らかであると語った。彼の主張は“財団は、対話や音楽などを通じての相互理解と共存の促進をうたっています。これは、非常に異常な植民地の状況に対して、あたかも普通の状態であるかのようなイメージを与えています。”ということだった。

しかし、特にラマッラーの街の通りで聞いた声や電子メールによる批判の大部分は、バレンボイム自身に対してだった。批判は、彼が書いた過去数年間の3つの記事に焦点が当てられ、特に最新の記事である、“鋳造された鉛作戦”(昨年12月末からのイスラエル軍によるガザ攻撃)時に英紙ガーディアンに発表された記事に対してだった。イスラエルのガザ地区への攻撃に対して、その行為を“自己防衛”としていると非難された。

 *ガーディアンに掲載されたバレンボイムの記事「勝利の幻想」のURL
 http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2009/jan/01/israel-gaza-bombings-hamas

バレンボイムと彼の財団への反対は何も新しいことではないが、イスラエルボイコット運動はガザ地区に対する攻撃以降、強化されている。活動家は、バレンボイム・サイード財団の活動への反対が最優先事項ではないとは言っている。

批評家エドワード・サイードの未亡人マリアム・サイードは、夫の死後、彼の意志を引き継いで財団を運営している。彼女はハーレツ紙に、エドワードはいつも“このプロジェクトは政治、政府や現在の問題の解決や存在とは、関係がない主張していました。それは純粋に障壁を打破するための個々の努力です。”と答えた。

マリアム・サイードは、パレスチナの子どもたちへの音楽や文化教育に対する財団の貢献を誇りに思い、また、そのプロセス対するバレンボイムの多大なる貢献度は多大な感謝していると語った。オペラの初演時、彼女は、バレンボイムが観客と出演者に対して書いた手紙を読んだ。
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パレスチナで初のオペラ4

パレスチナで初のオペラ123の続きです。

私たちは初日の7月14日に観劇に出かけました。
会場はラマッラー文化センター。日本政府の支援による新しいセンターです。
開場の30分前には着いたのですが、既に多くの人が集まっていました。
ラマッラーにあるビルゼイト大学の先生、NGOの代表など、知り合いの顔もチラホラ。
招待なのか、関係者が出演するのか、観劇なのかは、定かではないのですが。
開場と同時に、ほぼ満席になるほど、多くの人が集まりました。
多いのは家族連れ。クリスチャンらしき家族もムスリムらしき家族も一家総出です。
さすが、パレスチナ。子どもの多いこと。赤ちゃん連れもいます。写真・ビデオ撮影もOK.
やはり、子どもの発表会といった感じでした。
op13.jpg
撮影に忙しいお父さん。何処も同じです。

子どもたちは緊張気味で、コーラスの歌声はちょっと小さめ。
台詞での芝居の部分は、観客から笑い声が上がったり、拍手もありました。
二人のプロのオペラ歌手歌声は、場内に美しく響き渡りました。
観客も「アラビア語オペラ」という、異色の初の試みに違和感はなかったようです。
フィナーレは、総立ち、拍手喝采でした。
op11_20090829170243.jpg

このオペラ。英語字幕もつきました。
見づらい位置に字幕があったり、歌や台詞とずれていたり、少々何ありでしたが、
初の試みへの、準備は大変だったことが伺われました。

3日間続いたオペラ上演。
このオペラの準備をしてきたパウラとフランシスに3日間通しての感想を聞きました。
二人によると、
初日:リハーサル、2日目:オープニング、最終日:やっと本番、という感じだったそうです。
子どもたちは回を重ねるごとに自信をつけて、堂々と演技できるようになったとのことです。
今回のオペラは子どもたちの教育としての一つのチャンスでしたので、
回を重ねるごとに成長していったのは、とても頼もしいことだったことと思います。

このオペラは、今回に限った単発の企画です。
ドイツの2箇所のフェスティバルに参加できる可能性はあったのですが、
準備が非常に大変で実現は難しそうとパウラは言っていました。

3日目の最終日。
バレンボイムが、お忍びでやって来たそうです。
実は、彼がオーケストラの指揮をする予定もあったそうなのですが、
「非常に複雑な問題」があって、できなかったとのことでした。
それには、年末からのイスラエル軍のガザ侵攻に関わることなど、
様々なことが絡み合っていたことが、後でわかりました。

つづく
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パレスチナで初のオペラ3

パレスチナで初のオペラ12の続きです。

子どものための音楽プログラムとして始まった、パレスチナ初のオペラ。
ですが、オペラである以上、プロのオペラ歌手が必要です。
ソプラノとテノール1名ずつ、アラビア語を母国語とする歌手を探しました。
 
op11.jpg
右:イナス、中央:マルワン、左:フランシス

ソプラノのイナスは、ナザレ出身のイスラエル国籍のパレスチナ人。
ドイツ・ベルリン在住で、オペラの勉強中です。
この企画に協力したユダヤ系イスラエル人音楽家のバレンボイムが彼女のことを知っていて、
このオペラへの出演者として紹介したそうです。
イナスは、子どもたちの指導に対して、とても熱心な女性です。

テノールのマルワンは、音楽エージェンシーを通して、候補に挙がってきた歌手です。
彼はクウェート生まれのパレスチナ人で、15歳でロンドンに家族と移住しました。
ヨーロッパで音楽を学びオペラ歌手となりました。
彼の親戚はラマッラーにいて、年に1回はパレスチナを訪ねているそうです。
今回のオペラ上演では、親戚一同が観に来て、熱烈な声援を送ったそうです。

イナスとマルワンにとっても、母国語であるアラビア語でのオペラは初めてでした。
これでアラビア語で上演するための準備が整ってきました。

パレスチナの学校や既存の合唱団に呼びかけ、演じる子どもたちを募集しました。
op10.jpg
        本番で歌う子どもたち

集まってきた子どもたちですが、
キリスト教系の学校の合唱団、
エドワード・サイード音楽学校の合唱団に所属している子どもが多かったとのことです。
クリスチャンとムスリムの割合はほぼ半々でした。
子どもたちが集まれることを最優先したので、夏休みの7月に開催することになりました。
つづく
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パレスチナで初のオペラ2

パレスチナで初のオペラ1の続きです。

パレスチナ初オペラ開催までの準備は、海を越えたドイツで行われました。
オペラのリブレット(台本)を書いたドイツ在住のドイツ人パウラと
演出を担当、自らも俳優として参加したパレスチナ在住のフランス系パレスチナ人
(正しい表現かちょっと自信がありませんが)フランシスに話を聞きました。
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大変な道のりだったようです。

今回のオペラの音楽監督、オーケストラの指揮をしたアナが、
このオペラの企画を立てて予算を確保してきました。
アナは、オペラのリブレットの書き手を探し、これまで関わりがあったパウラに相談しました。
パウラは元々オペラ歌手でしたが、
今はオペラのリブレットを書いたり、製作・演出に携わっています。

パウラは、アナからこの企画を聞いて、オペラのリブレットをくことを引き受けました。
約1年前のことです。
パウラがリブレットを書き上げていく上で重視したのは、
できるだけ多くの子どもたちを巻き込める作品に仕上げることでした。
op08.jpg
      多くの子どもたちが参加!

パウラは、すでにある曲を使ってオペラの準備を始めました。
彼女が選んだのが、スペインのモーツアルトと呼ばれている、
J.C.アッリアガ(J.C. de Arriaga) の作品でした。
19 世紀の作曲家で、19歳で早逝しています。
パウラが今回のオペラに選んだ作品は、アッリアガが14歳のときのものです。
あまり有名な作品ではないのですが、
作曲した年齢が演じる子どもたちに近いこともパウラがこの作品を選んだ理由の一つでした。
パウラは、原曲から今回のオペラに使う部分を選び出し組み替え、
それにあわせてリブレットを書いていったそうです。

このオペラは、子どもたちも一緒に、アラビア語で演じるものです。
パウラはドイツ語でリブレットを書き、それをアラビア語へと翻訳してもらっていきました。
アラビア語でのオペラは初めての試みでした。

このオペラを製作するに当たって、文化にも注意が払われました。
それは、この地域の特徴、特にイスラームの影響が強いアラブ文化圏ということです。
パウラは、一部をせりふによる芝居に仕立てました。
op09.jpg
     芝居の部分で熱演した男の子
この地域は、オペラやミュージカルのような歌によるものは、あまりなじみがないです。
しかし、語り(ストーリー・テラー)には素晴しいものがあります。
千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)は良い例でしょう。
それで全てを歌で仕上げるのではなく、
せりふで聞かせる芝居仕立ての部分も入れたとのことです。
子どもたちが参加するということも、もちろん、念頭に置かれ、
子どもたちにとって演じやすいことが重視されました。

パレスチナ側での具体的な上演に向けての準備に関わったのは、フランシスです。
彼は、エルサレム在住の心理療法士で、特に青少年のために働いています。
劇やストリートパフォーマンスを用いた、ストレスのコントロール、
それらを通した自己表現による心理的な効果などについても詳しいです。
俳優でもあり、今回のオペラでも重要な役を演じました。

パレスチナの子どもたちのコミュニティでの教育の専門家であるフランシスは、
ドイツ在住のパウラとスカイプでつなぎ、話し合いを重ね、
オペラ完成に向けて準備していったのです。
つづく
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